登入自宅のマンションに帰り着くなり、朔也は玄関でへたり込んだ。
やばい。
十年間ずっと会いたいと思い続けてきた相手と、よりによってこんなかたちで再会した。スーツに皺がついたまま、玄関のたたきにうずくまっている自分を、どこか他人ごとのように朔也は感じていた。
うれしすぎて、高校時代の自分にすぐ戻りそうになる。けれど、自分から距離をとっておきながら今さら「久しぶり」とは言えなかった。十年前、自分の側で線を引いたのだ。引いた線を、今になって自分から踏み越える権利は、たぶん、もう、ない。
駅のホームのベンチで酔いつぶれていたら、声をかけられた。懐かしい声だと気づいたときには、目はもう半分ほど開いていた。焦点が合った瞬間、紡の顔がそこにあった。幻覚を見ているのかと思った。徐々に輪郭が鮮明になっていって、本物の紡だと確信した瞬間、朔也の酔いは音を立てて飛んだ。
それでも、朔也は酔いつぶれたふりを続けた。
しらふで対応したら、自分がどんな顔をしてしまうか、わからなかった。十年もずっと片想いを引きずっている、なんて、痛すぎる。痛さを紡に見せたくなかった。
あふれそうになるものを抑えるためにシャワーを浴びた。湯を頭から被っても、熱は引かなかった。無理やりベッドに横になり、目を閉じた。覚めたつもりでもアルコールは残っていたのか、意識はあっという間に遠のいた。
翌朝、目を覚ました瞬間、知らない天井がそこにあった。
いや、自分の部屋の天井だ。それなのに、なぜ「知らない」と感じたのか、すぐにはわからなかった。
鼻の奥に、かすかな柑橘の香りが残っている気がした。誰かの肩にもたれかかった感触。耳のすぐそばにあった他人の息遣い。
あれは、やっぱり夢だったのだろうか。
好きでたまらなかった相手だった。
あまりにも近くにいすぎた。だから、いつ気持ちがあふれだしてもおかしくなかった。あふれだした瞬間に、あの関係は終わる。確信に近い予感だけが、十年前の朔也のなかで先に育っていた。壊れるくらいなら、なにも言わないほうがいい。それが朔也のたどり着いた結論だった。
高校卒業と同時に、朔也は家族でアメリカに渡った。父の関連会社への出向に合わせて一家で引っ越すことになったのだ。当初、朔也は日本の大学に進むつもりだった。家族だけ先に渡米する案も考えた。けれど、紡のそばにいたら、いずれ自分はあの関係を壊す。そう確信していた。だから思い切って父について行き、向こうの大学へ進学することにした。
太平洋を挟めば物理的に手は届かない。手が届かない場所まで自分を引きずっていけば、想いは少しずつ薄れる。そう信じたかった。
日本を離れる前に、朔也は携帯番号をアメリカのものに切り替え、高校時代の連絡先を一掃した。当時使っていたSNSのアカウントもすべて削除した。
忘れたくて、仕方がなかった。
好きで好きで、しょうがなかったから。
太平洋の向こうで朔也は四年を過ごした。大学のキャンパスにも、寮の部屋にも、紡の影は届かなかったはずだった。「届かなかったはずだ」と過去形で言える日は、結局一日も来なかった。卒業後、現地で就職する道もあった。けれど朔也には、日本に帰ってきたい理由が、はっきりとひとつあった。理由の正体は、自分でも、いまだに整理しきれていない。整理しきれないまま、朔也は飛行機に乗った。
帰国して広告代理店に就職してから、朔也は実名のアカウントをひとつだけ作った。仕事の名刺がわりに、と人には説明している。説明しながら、それが半分は嘘であることを朔也は知っていた。日々の写真を、当たり障りのないかたちで投稿していた。誰に向けて、というつもりはなかった。少なくとも、そういうことにしていた。
いつか、誰か、見つけてくれるかもしれない。その「誰か」の名前を、朔也は口にも心のなかにも、決して書きださなかった。書きださなければ、それは、ただの仕事用アカウントのままでいられた。
ベッドから起き上がり、朔也はスーツの胸ポケットに手を入れた。
カサ、と紙が小さな音を立てた。
そっと引きだして、広げた。
丁寧な字で、電話番号と「白瀬紡」と書かれていた。
――夢じゃ、なかった。
紡の名前を、朔也は指の腹でそっとなぞった。鼻の奥に、また、柑橘の香りが広がった気がした。
「有馬……だよね?」
昨夜の声が、耳の奥でもう一度、鳴った。
昔は「朔也」と名前で呼んでいた声だった。十年前、駅前で「じゃあな」と手を振った日からずっと、紡が朔也をなんと呼んでいたのか、朔也は知らないでいた。
もう、そういう関係じゃない。
当然だ。距離を作ったのは自分自身なのだ。覚えていてくれただけで、ありがたいと思わなければならなかった。
朔也は寝室を出て、洗面台で冷水を顔に当てた。二日酔いの頭が、こめかみのあたりで鈍く脈打っている。親指で押しても痛みは引かない。鏡のなかの自分の顔が、思っていたよりひどい顔をしていた。
通勤電車のなかで、朔也はスマホに短い文章を打ち込んだ。
『昨夜はご迷惑をおかけしました。有馬』
送信ボタンの上を指が行ったり来たりしている。送っていい立場かどうか、朔也には判断がつかなかった。送らないのも、もらった連絡先への礼を欠く。紡に対して失礼にあたる。
会社の最寄駅のアナウンスが流れた。
朔也は結局、送信できないままスマホをバッグに押し込んだ。
会社に着いて、朔也はビルを見上げた。
雲ひとつない秋の空が、ビルの窓に映りこんで光っていた。気合を入れるつもりで息をひとつ吐き、自動ドアをくぐった。
自席につくと、こめかみが鈍く痛んだ。給湯室で紙コップに水を注ぎ、一息に飲み干して、もう一杯注ぎ直す。
そこへ同僚の篠原浩輔が入ってきた。
「おはよう、有馬」
「……うす」
「その顔、二日酔いだろ」
「うるせえ」
篠原はからかうような口調で訊いてきた。
「で、昨日はどこで潰れてた」
「覚えてない」
「ほんとかよ」
篠原は目を細め、片眉をわずかに跳ね上げた。なにかを察したようだった。それでも深追いはしてこない。
「まあ、ちゃんと生きてたならいいさ」
篠原は朔也の肩を軽く叩いて、コーヒーマシーンへ向かった。朔也は短く息を吐いて、給湯室を後にした。
二日酔いでも仕事は容赦なくやってくる。
午前は定例会議だった。頭痛で内容はあまり入ってこなかったが、自分に関わる箇所はメモを取り、必要な発言もした。普段の自分の動き方で、勝手に体が動いてくれているのが、皮肉だった。アメリカで身につけた対人スキルは、こういうとき、ロボットのようによく働く。
会議を終えて自席へ戻る前に、朔也は社内の案件ボードに目を通した。新規コンペの告知、既存案件の進行状況、人員配置。普段の朔也は、新規案件に自分から手を挙げるタイプではない。人手不足のときや、自分のスキルが活きる場面にだけ、必要に応じて参加する。今日もそのつもりで、ボードを眺めた。
目が、一点で止まった。
トキワ文具。
紡の勤め先だった。
新ブランド「blanc」のコンペ。参加五社。オリエンは来週の月曜。
朔也は、ごくりと唾を飲み込んだ。
その足で、課長の席へ向かった。会議から戻ったばかりの課長が、ノートパソコンを開きかけていた。手のひらに汗がにじんでいる。拳を握り直して、息を整えた。
ここで動かなければ、また十年、たぶん、同じ後悔を繰り返す。十年前、ホームで紡の背中を見送ったときと同じ顔で、また紡を見送ることになる。それだけは、避けたかった。避けたいと思っているのに、自分で自分を許してしまっているような気がした。朔也はその感情に、うっすら罪悪感も抱いた。
「課長」
声がわずかにうわずった。
「おう、有馬。どうした」
「あの」
一度言葉を切って、もう一度息を整える。胸が空気を吸っているのに、吸えていないような感覚があった。
「トキワ文具の案件、私に任せていただけませんか」
「有馬が?」
課長は眉を跳ね上げた。意外そうな顔だった。当然だ。朔也が新規案件に自分から立候補するのは、入社してから初めてだった。
「お前がやる気だすのは珍しいな」
「はい」
表情は崩さずに返した。崩したら、別の感情まで一緒に出てしまいそうだった。
課長は朔也をしばらく見つめてから、ふと表情を和らげた。
「どうしてもやりたい、って顔してるな。わかった。オリエン、出てこい」
「ありがとうございます」
「がんばれよ」
頭を下げて自席へ戻る。椅子に腰を下ろした瞬間、知らないうちに張り詰めていた肩が、ようやく一段、下がった。
もう少しだけ近くにいたい。
半年でも、一年でも、仕事の枠内ででも構わない。ただの取引先でいい。それ以上は望まない。そう自分に言い聞かせれば、朔也はとりあえず前に進める気がした。
言い聞かせた瞬間、それが嘘だと自分でわかってしまった。
それ以上を望まないなんて、嘘だ。
本当は、十年前のあの夕焼けの下校路を、もう一度、紡の隣で歩きたい。けれど、それを望む権利は、もう自分にはない。十年前にその権利を返したのは、自分自身だった。
オリエンに紡が出てくるとは限らない。けれど、ゼロではない。
朔也はスマホを取り出した。画面には、朝送れずにいた『昨夜はご迷惑をおかけしました。有馬』という下書きが、そのまま残っていた。
送らなかったら、紡は朔也が連絡先を読んだのかどうかさえ知らないままになる。読んで、捨てた、と受け取られるかもしれない。十年前と同じだ。十年前、自分は黙って番号を変え、SNSを消し、紡の前から消えた。同じことを、もう一度やるわけにはいかない。
今度は、迷わなかった。
送信ボタンを押した。
ちょうど昼休みの時間だった。紡がこの一文を、どんな顔で受け取るのか。朔也には知る術がなかった。それでも、押した。押したことだけは、自分にも、たしかなことだった。
六月の下旬になると、毎日しとしと雨が降り続くようになった。鬱陶しい雨も、好きな人と一緒なら気にならない。 先日、紡の母から電話がかかってきた。例の定期連絡だ。「元気にしているのか」と、毎回同じことを心配してくれる。大人なんだから、そんなに心配しなくてもいいのに。 そう思いながら、ふと、もう何年も実家に帰っていないことに気づいた。電話の声を聞くたび、少しだけ胸がちくりとする。「お母さん、なんて?」 朔也が、隣からのぞき込んでくる。「いや、別に。いつもの定期連絡。元気にしてるのか、って」「そっか。実家には帰ってないの?」「ここ数年、帰ってないかな……」「じゃあ、帰れば?」「え?」「お母さん、さみしいんじゃないの?」 確かに、そうかもしれない。電話のたびに、同じことばかり聞かれる。元気なの? 仕事は順調? 顔を直接見れば、親ならすぐにわかることばかりだ。それでも電話で確かめるしかないのは、紡が帰らないからだ。「そ……っか」 だからといって、わざわざ帰りたいとも思えなかった。実家には、まだ言えていないことが多すぎる。「なあ。俺と一緒に、地元に行こうよ」「は?」「久しぶりに、高校とか見てみたくねえ?」 朔也との思い出の地を、ふたりで巡ろうということだろうか。実家には数年帰っていないし、高校なんて卒業以来だ。「そう……だな」「そのついでに、実家に寄ればいいじゃん」「あ……」 「ついで」と言ったけれど、本当は、紡が実家に帰りやすいように気を遣ってくれたのだ。なんでもないふりをして、いちばん大事なところをそっと後押ししてくれる。朔也は、いつもそうだ。「じゃあ、朔也も俺の家に来てよ」「俺?」「……うん。大事な人を、紹介したい。でも――」 紡は、思
六月も中旬になり、鬱陶しい天気が続くようになった。部屋の中は湿気が高くジメジメしている。けれど好きな人といればそんなことすら、気にならないから不思議だ。 もうすっかり朔也の部屋に入り浸ってしまい、この部屋が元から紡の部屋だったのではないかと思えるほどだった。朔也が使っていいと言ってくれたチェストの一番下の引き出しは、紡の服でパンパンになっていた。申し訳ないと思いながらも、チェストの上にも服を積んでいた。収納用のボックスを買おうかとも思ったが、紡は居候の身だ。そんなことはできるはずもなかった。 クローゼットの前でぼんやりしていると、後ろから朔也が声をかけてきた。「紡のもの、増えたな」「……うん。ごめん。つい、甘えていっぱい持ってちゃって」「いいんじゃねえか?」「なにが?」 朔也は一瞬目を泳がせたが、紡を見つめた。耳の端がほんのりと赤くなっている。「……もう、一緒に住んじまったら? そのほうが早くねえか?」 そっけなくそう言うが、朔也の目は真剣だった。 冗談で言っているわけではない。そんなことぐらい、鈍感な紡でもわかった。 紡は息をのんだ。朔也からそんな提案を受けるとは思っていなかったからだ。 この部屋に入り浸るようになってから、ずっとここにいられればいいなと思っていた。けれど、朔也には朔也の生活がある。ひとりになりたいときもあるはずだと思っていた。だから、紡からは「ここにずっといたい」とは言えなかった。 目の奥がじんと熱くなる。 ずっと言いたくて言えなかった言葉を、朔也のほうから差し出してくれた。それがどうしようもなく、うれしかった。「うん、早い! 朔也とずっと一緒にいたい!」 思わず朔也の首に飛びつくと、やさしく受け止めてくれた。「……そうか」 朔也は体の力が抜けたようだった。そのひと言を伝えるだけで、緊張していたのだろうか。 そういえば、もうすぐ契約の更新だった。「俺、この部屋にずっといていいの?」「俺が紡にいてほしいんだよ」
六月になった。梅雨入り前の、からりと乾いた空気が頬をなでていく。 紡と付き合いはじめて、もう四か月目になる。 片想いの時間がお互い長すぎて、最初はうまく心のうちを出せなかった。それでも、一度ぶつかってからは少しずつほどけてきた気がする。 いまでは紡が部屋に来る日のほうが多く、ほとんど半同棲のような暮らしだ。自分の部屋に紡がいる。それだけのことが、いまだに夢みたいに思える。隣で紡が目を覚ますたびに、これは現実かとこっそり確かめてしまう。 ずっと、欲しがることすら自分には許されない気がしていた。それがいま、当たり前みたいに隣にいる。 六月の最初の土曜日。 紡とデートをして、食事をした帰りだった。どちらからともなく足が向いたのは、あの駅だった。紡と再会した、あの駅。 改札をくぐり、ホームの奥のベンチへ向かう。八か月前、朔也が酔いつぶれて眠っていた、あのベンチだ。同じ場所に、同じ形のままぽつんと残っている。ふたりで並んで腰を下ろした。 八か月前のあの夜、ここで酔いつぶれていた自分を紡が見つけた。あのときは、まさかこんな日がくるなんて思いもしなかった。 夜のホームは、人もまばらだった。生ぬるい風が、線路の匂いを運んでくる。 ――言うなら、いまだ。 朔也は、ずっと言いそびれていたことを話す決心をした。 嘘はつかない。隠したいことがあれば、ふたりで決める。先日、そう約束したばかりだった。なら、胸の奥にしまったままのこれもちゃんと渡しておきたい。 大きく息を吸って、腹に力を込める。「あのさ……」「ん?」 紡が、あどけない表情で朔也を見た。一点の曇りもない目が、まっすぐに朔也を映している。その澄んだ目を見ていると、よけいに言い出しづらくなる。「あの夜さ……。『有馬だよね』って言われた瞬間。実は意識が戻ってたんだ」「うん。それは聞いたよ。覚えてないふりした、って」「あ…&hellip
日曜の夕方、紡はひさしぶりに自宅マンションへ帰ってきた。 いまは朔也の家にいるほうが多く、この部屋に戻るのは週に一度あるかないかだ。長く暮らしてきたはずなのに、こもった空気が、ここをよその家みたいに感じさせる。 窓から差す夕日が、見慣れた家具をオレンジに染めている。ものはどれも元の場所にあるのに、どこか冷たく見えた。郵便受けにたまった広告。流しに伏せたままのマグカップ。生活の止まった部屋の匂いがする。 ここには、紡の荷物がある。けれど、紡の暮らしはもうこの部屋にはない。 ――きっと、あっちでの暮らしのほうが、もう心地いいんだろうな。 そんなことを考えていると、スマホが震えた。画面を見ると、実家からだった。「もしもし」『紡?』 母だった。実家からは月に何度か、こうして電話がかかってくる。もう二十七なんだから心配いらないと言っても、やめてくれない。「母さん、元気?」『私は元気よー。紡は?』 朗らかな声に、少しだけ肩の力が抜けた。なんだかんだ言って、家族からの電話は特別なのかもしれない。「うん。元気」『仕事は忙しいの?』「あー、うん。新しいプロジェクト任されて、ちょっとね」『そう。体に気をつけなさいよ』「ありがと」 電話の向こうで、母は近所のことや父の愚痴をひとしきり話した。その声を聞いていると、子どものころの台所の匂いまでよみがえる気がした。 他愛もない近況を話していると、ふと母がこぼした。『紡、最近、声が明るいわね』「え?」 心臓が、どくんと跳ねた。 声が明るいのは、たぶん朔也のおかげだ。いや、たぶんじゃない。間違いなく、朔也のせいだ。一緒に過ごすようになってから、毎日が自分でも驚くくらいやわらかくなった。 でも、母はなにも知らない。紡がゲイだということも、朔也のことも。 母は、紡を二十七年見てきた人だ。声の調子ひとつでなにかを感じ取っても、不思議じゃない。それが、うれしいような、こ
まだまだ自分の気持ちを全部朔也に言えないときもある。けれど、言葉を飲み込む回数はずいぶん減ったように感じる。それは朔也も同じようだった。いつもなら笑ってごまかすところを、きちんと言葉にしてくれる。そうやってお互い、ちょっとずつ前に進んでいる気がした。 苦手なことをするのは、誰だって嫌だろう。それでも朔也のためなら一生懸命になれる自分を見ると、よっぽど好きなんだなと思ってしまう。 朔也の家に着替えを置くようになってから、平日も朔也の部屋で過ごす時間が増えた。増えたというより、ほとんど住んでいるようなものだ。もう、自分の部屋はいらないんじゃないか。そんなふうに思うくらいだった。「はい、お待たせ」「うわっ。うまそ」 朔也は、紡が並べた夕飯を、目を細めて見た。「朔也、全然ご飯作ってくれないじゃん」「ははは。いや、紡の飯がうまいからさ……」 そう言うと、朔也は大皿から麻婆豆腐をすくって小鉢に入れた。スプーンを口に運び、顔をほころばせる。「うまーっ! これ、レトルトじゃないんだろ?」「意外と簡単だよ。調味料さえあればパパッとできるし。今度教えようか?」「いや、いい。紡が作って」「俺、家政婦じゃないんだけど!」 ぷうっと頬を膨らませると、朔也が吹き出した。「相変わらず紡はかわいいなぁ。ちゃんと後で体で払ってやるよ」「えっち! そんなことで済ませられると思うなよ!」「はははは」 くだらないやりとりをして、ふたりで笑う。なんでもない夜だ。けれど、こういう夜こそが紡にはいちばんかけがえのないものだった。 そのとき、紡のスマホが震えた。「誰だろう?」「見たら?」「……うん」 画面を確認すると、高城からのメッセージだった。タップして開く。『白瀬ー! 今度、有馬と三人で飲もうぜ! 同窓会の後、お前らの様子がおかしかったから、気になってさ!』 なんだ、こ
眠ったはずなのに、体がすっきりしない。まるで鉛が、体の真ん中に居座っているようだった。その重みが、紡の心まで侵食していく。 ベッドに大の字になって、ぼんやりと天井を見上げる。 本当なら、いまごろは朔也の部屋でくだらないことを言い合っているはずだった。それなのに――。 この二週間、死ぬほど忙しかった。週末に朔也に会えなくて、さびしかった。連絡できなかったのは、仕事のせいだけじゃない。心配をかけたくなかったのだ。「ああっ! もうっ!」 紡は頭をかきむしった。 わかっている。心配をかけたくないからと、なにも言わずにいるのは、いまの紡たちにはもう必要のないことだ。黙っていた自分が悪い。 それなのに、本当のことを言い当てられてカチンときた。だから、言い返してしまった。 昨日のドアの閉まる音が、まだ耳の奥にこびりついている。あの音を、自分で鳴らしたのだ。 紡はサイドテーブルに手を伸ばし、スマホの画面をつけた。時刻は、もうすぐ正午だ。着信もメッセージも、なにもない。 もちろん、紡からは電話もしていないし、メッセージも送っていない。ただひと言、「ごめん」と送れば済む話だった。けれど、それでは今までとなにも変わらない。謝って、閉じる。それで丸くおさまったことにして、結局なにも話さないままになる。 ふと、水瀬の言葉がよみがえった。「ちゃんと喧嘩しろよ」 あのときは、どうして水瀬がそんなことを言うのかわからなかった。十年も想い続けた相手なのだから、できることなら喧嘩なんてしたくない。誰だってそう思うだろう。 スマホをサイドテーブルに戻し、頭の後ろで手を組む。 仲直りとは、なんだろう。 怒りがおさまってから会うことだろうか。いや、それを待っていたら、また十年が過ぎてしまう。それだけは、嫌だ。せっかく再会して、恋人同士にまでなれたのに。このまま、なんとなく終わっていくなんて絶対に嫌だった。 紡は、ベッドから飛び起きた。 シャワーを浴びると、頭の芯が少しだけ冷えた。それでも、胸の奥の怒りはまだくすぶって
あれから、黒木はあまり馴れ馴れしくしてこなくなった。他人から見ればわからない程度の、ほんのわずかな変化だ。けれど紡にはわかった。ほんの少しだけ、距離が遠くなった。きっと黒木は、紡に好きな相手がいることを察したうえで、自分なりに線を引いたのだろう。そんなにすぐ気持ちが整理できるはずもないのに、すごいな、と紡は素直に感心した。 だから紡のほうも、黒木にはこれまで通り接した。今さら急によそよそしくなる必要もない。それで十分だったらしく、まわりの同僚たちには、ふたりのあいだにあった出来事は、たぶん誰にも気づかれていない。 有馬じゃない相手なら、こんなにも普通に振
キックオフを終えて、次の週からプロジェクトは本格始動した。 週に一度、プロジェクトメンバーが揃って進捗状況の確認を行う会議があった。本当は定例会議だけで事足りるにもかかわらず、有馬が「近くまで来ましたので」と紡を訪ねてくる日が増えていった。気づけば週に一度の定例会議とは名ばかりで、有馬とはほぼ毎日のように顔を合わせている。「あの……有馬さん」「なんでしょう」「そんなに頻繁に来ていただかなくても……」 別に有馬を拒んでいるわけではない。むしろ本心を言えば
キックオフの当日、紡はいつもより一時間も早く目を覚ました。 今日からblancのプロジェクトが正式に始まる。専任としてアサインされた以上、意気込みはもちろんある。 ただ、目覚めの早さの理由は、それだけではなかった。 数日前、社内システムにキックオフの参加者リストが更新された。トキワ文具側、セントラル・アド側、両社の名前が並んだ表を、紡はなにげなく開いた。 そこに、見慣れた名前があった。 セントラル・アド株式会社 営業三部二課 有馬朔也。 息が、詰まった。「…&h
月曜の朝、朔也はアラームが鳴る前に目を覚ました。 月曜は普段、寝起きが悪い。社会人になって以来、目覚ましより先に起きるのは初めてかもしれない。 緊張しているのか。自分の胸に問いかけてみる。 たぶん、そうだ。今回は初めて、自分から手を挙げた案件だった。 あくびをひとつして、ベッドを出た。 キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのキャップをひねると、カチッと小気味のいい音がした。口をつけて、半分以上を一気に流しこむ。よほど喉が渇いていたらしい。一度口を離して息を吐き、残りも一気にあおった。







